受付で怒鳴り続ける患者、診察の順番をめぐって何十分も居座る家族、同じ内容の電話を毎日かけてくる人。
クリニックの現場では、こうした言動を「患者さんだから」と受付職員が一人で受け止めてきたことが少なくない。
この扱いが変わる。
2025年(令和7年)6月11日に公布された改正労働施策総合推進法により、2026年(令和8年)10月1日から、カスタマーハラスメント(カスハラ)を防止するための措置が事業主の義務になる。
病院やクリニックの利用者、つまり患者とその家族も、法律上の「顧客等」に含まれる。
一方で、医療機関には医師法の応召義務(通知では「応招義務」)がある。
「カスハラだから診療を断る」と短絡すると、今度は診療拒否の問題を招きかねない。
この記事では、義務化の中身と応召義務との関係、院内掲示の文例、小規模クリニックでの準備を整理する。
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カスハラ義務化で何が変わるのか
改正の骨子
改正後の労働施策総合推進法第33条は、事業主に対し、顧客等の言動で労働者の就業環境が害されないよう、相談体制の整備や抑止のための措置など「雇用管理上必要な措置」を講じることを求めている。
具体的な中身は、2026年2月26日に公布された「カスタマーハラスメント防止指針」(令和8年厚生労働省告示第51号)に示された。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 根拠 | 労働施策総合推進法 第33条(令和7年法律第63号による改正で新設) |
| 施行日 | 2026年(令和8年)10月1日 |
| 義務の中身 | カスハラ防止指針に定める10の措置を講じる |
| 対象となる労働者 | 正職員だけでなく、パート・契約職員など雇用する労働者の全て |
| 相談したことを理由とする不利益取扱い | 禁止(第33条第2項) |
| 違反した場合 | 厚生労働大臣(都道府県労働局)による助言・指導・勧告。勧告に従わない場合は公表の対象(第42条) |
条文と指針を見る限り、企業規模によって義務を免除する規定は置かれていない。
職員を雇用しているクリニックは、職員数が数人であっても、10月1日までに措置を整えておく前提で準備するのが安全だ。
カスハラの定義は「3つの要素を全て満たすもの」
指針では、職場におけるカスタマーハラスメントを、次の3つの要素を全て満たすものと定義している。
- 顧客等の言動であること
- 労働者が従事する業務の性質その他の事情に照らして、社会通念上許容される範囲を超えたものであること
- それにより労働者の就業環境が害されること
「顧客等」には施設の利用者として病院が例示され、利用者の家族や、これから受診する可能性のある人も含まれる。
対面だけでなく、電話やSNSなどインターネット上の言動も対象だ。
患者の正当な要望とカスハラの境界
指針は「顧客等からの苦情の全てが職場におけるカスタマーハラスメントに該当するわけではな」いと明記している。
社会通念上許容される範囲で行われた苦情は「正当な申入れ」であり、カスハラには当たらない。
判断は「言動の内容」と「手段や態様」の2つの軸で行う。
どちらか一方だけが範囲を超える場合でも、カスハラに当たり得る。
指針の例をクリニックの場面に置き換えると、次のようになる。
| 軸 | 指針が示す類型 | クリニックで起こりうる例 |
|---|---|---|
| 言動の内容 | 理由がない、またはサービスと全く関係のない要求 | 職員の私的な連絡先を執拗に聞く、性的な要求をする |
| 言動の内容 | 契約等で想定するサービスを著しく超える要求 | 予約枠がないのに毎回の優先診察を要求する |
| 言動の内容 | 対応が著しく困難、または不可能な要求 | 医学的に必要のない薬の処方を要求し続ける |
| 言動の内容 | 不当な損害賠償要求 | 待ち時間を理由に金銭を要求する |
| 手段・態様 | 身体的な攻撃 | 職員を叩く、物を投げつける |
| 手段・態様 | 精神的な攻撃 | 人格を否定する暴言、SNSに悪評を書くとほのめかして脅す、制止されても職員を撮影し続ける |
| 手段・態様 | 威圧的な言動 | 待合室で大声をあげて周囲を威圧する |
| 手段・態様 | 継続的、執拗な言動 | 同じ質問や電話を執拗に繰り返す |
| 手段・態様 | 拘束的な言動 | 長時間の居座り、長電話で職員を拘束する |
これらは限定列挙ではない。
一方、次のような申入れは正当な範囲に入りうる。
- 会計金額の説明を求める
- 長い待ち時間について理由を尋ねる
- 職員の説明の誤りや、失礼な言葉づかいを指摘する
「言い方が強い」だけで判断せず、要求の中身と手段・態様の両方を見るのが基本だ。
障害のある患者からの申出はカスハラではない
障害のある人が社会的障壁の除去を求める意思を表明すること自体はカスハラに当たらないと、指針は明記している。
「筆談で説明してほしい」といった申出は、合理的配慮の問題として扱う。
応召義務との関係 ― 診療を断れるのはどんな場合か
指針も医療の特性への留意を求めている
カスハラ防止指針は、業法等でサービス提供の義務が定められている場合や、サービスの途絶が生命や健康に重大な影響を及ぼす場合があることに留意するよう求めている。
医療機関の場合、この「業法による義務」の代表が医師法第19条第1項の応召義務だ。
応召義務の基本は、別記事「クリニックが知っておくべき「応召義務」とは?」で解説している。
厚労省通知による整理
厚生労働省は2019年12月25日の通知(医政発1225第4号)で、診療しないことが正当化される場合の考え方を整理した。
最も重要な考慮要素は、患者に緊急対応が必要かどうか(病状の深刻度)だとされている。
| 状況 | 診療時間内 | 診療時間外 |
|---|---|---|
| 緊急対応が必要(病状の深刻な救急患者など) | 事実上診療が不可能といえる場合にのみ、診療しないことが正当化される | 応急的に必要な処置をとることが望ましいが、原則として公法上・私法上の責任に問われることはない |
| 緊急対応が不要(病状の安定している患者など) | 原則として必要な医療を提供する。ただし患者との信頼関係なども考慮し、正当化される場合は緩やかに解釈される | 即座に対応する必要はなく、診療しないことは正当化される(時間内の受診依頼や他院の紹介が望ましい) |
そのうえで通知は、「患者の迷惑行為」について、迷惑行為の態様に照らし診療の基礎となる信頼関係が喪失している場合には、新たな診療を行わないことが正当化されるとしている。
例として挙げられているのは「診療内容そのものと関係ないクレーム等を繰り返し続ける等」だ。
クリニックでの判断の目安
通知と指針を重ねると、実務上の判断の目安は次のようになる。
- 緊急対応が必要な患者は、迷惑行為があっても、まず必要な対応をとる。暴力などで職員の安全が脅かされる場合は警察に通報する
- 緊急性がなく、迷惑行為によって信頼関係が失われている場合は、「新たな診療」を行わないことが正当化されうる
- 医療費の不払いがあっても、そのことだけで診療を断ることは正当化されない(支払能力があるのに悪意をもって支払わない場合などは別)
- 年齢・性別・国籍・宗教などだけを理由に診療を断ることは正当化されない
「信頼関係の喪失」にあたるかは個別事案で判断するしかない。
だからこそ、いつ、誰に、どんな言動があり、どう説明したかという記録が判断材料になる。
診療を断る判断は院長が行い、判断に迷う事案は弁護士や医師会などに相談する体制にしておきたい。
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クリニックが講ずべき10の措置
指針が「必ず講じなければならない」とする措置は、次の10項目だ。
右の列は、小規模クリニックでの実施例である。
| 区分 | 講ずべき措置 | 小規模クリニックでの実施例 |
|---|---|---|
| 方針の明確化と周知 | ①カスハラには毅然と対応し、労働者を保護する方針を明確化し、周知・啓発する | 院長名の方針文書を作り、全職員に配布・説明する |
| 方針の明確化と周知 | ②カスハラの内容と、あらかじめ定めた対処の内容を周知する | 1〜2枚の対応手順書を作り、朝礼や院内研修で読み合わせる |
| 相談体制 | ③相談窓口をあらかじめ定め、周知する | 事務長や看護師長など、相談を受ける担当者を指名する |
| 相談体制 | ④窓口担当者が適切に対応できるようにする | 相談を受けたときの聞き取り項目をメモにしておく |
| 事後対応 | ⑤事実関係を迅速かつ正確に確認する | 当日中に本人と同席した職員から聞き取り、記録する |
| 事後対応 | ⑥被害者に配慮する措置を行う | 担当の交代、複数人対応、必要に応じたメンタル面の相談 |
| 事後対応 | ⑦再発防止に向けた措置を講ずる | 方針の再周知、受付の運用や説明の仕方の見直し |
| 抑止のための措置 | ⑧特に悪質なカスハラへの対処方針を定め、周知し、対処できる体制を整える | 警察への通報基準、警告文、院長判断による新たな診療の中止などを定める |
| 併せて講ずべき措置 | ⑨相談者等のプライバシーを保護し、その旨を周知する | 相談内容を共有する範囲を決め、手順書に書く |
| 併せて講ずべき措置 | ⑩相談したこと等を理由に不利益な取扱いをしない旨を定め、周知する | 就業規則や方針文書に明記する |
相談窓口はパワハラ・セクハラの窓口と一体でなくてもよく、上司にあたる管理監督者を担当者に定めることも考えられると、厚生労働省の解釈事項は示している。
また、業界団体のマニュアルを配るだけでは、①②の措置を果たしたことにならない。
自院の実情に合わせて調整した方針と対処の内容を定め、周知する必要がある。
対処の内容に入れておきたい項目
指針は対処の内容の例として、直ちに上司へ報告して指示を仰ぐ、可能な限り一人で対応させない、十分に説明しても要求が続けば一定の時間で退出を求める・電話を切る、犯罪に該当しうる言動は警察へ通報する、やり取りを録音・録画する、などを挙げている。
録音・録画を事実確認に使うなら、その利用目的をプライバシーポリシーなどで公表しておく必要がある。
院内掲示と受付フレーズの文例
方針を患者に周知することまでは義務ではない。
ただし指針は、患者側に周知することも被害の防止に効果的としている。
院内掲示の文例
患者さま・ご家族さまへのお願い
当院は、すべての患者さまに安心して受診していただけるよう努めています。
ご意見やご要望は、受付または院長までお寄せください。一方で、職員に対する暴言、威圧的な言動、長時間の居座り、診療と関係のない要求の繰り返しなど、社会通念上許容される範囲を超える言動があった場合には、職員を守るため、組織として毅然と対応いたします。
状況により、対応をお断りすることや、警察へ通報することがあります。また、トラブル時の事実確認のため、会話を記録させていただく場合があります。
ご理解とご協力をお願いいたします。○○クリニック 院長 ○○○○
「新たな診療をお断りすることがあります」とまで掲示するかは、応召義務との関係や地域での役割を踏まえて院長が判断したい。
受付での対応フレーズ
| 場面 | フレーズ例 |
|---|---|
| 最初の受け止め | 「お待たせしてしまい申し訳ございません。どの点にお困りか、お聞かせいただけますか」 |
| 対応できない要求 | 「ご要望は承りました。ただ、その対応は当院ではいたしかねます。理由をご説明します」 |
| 声が大きくなってきた | 「ほかの患者さまもいらっしゃいますので、落ち着いてお話しいただけますでしょうか」 |
| 一人で抱えない | 「責任者に代わりますので、少々お待ちください」 |
| 同じ要求が続く | 「先ほどご説明した内容から変わりません。これ以上はお答えいたしかねます」 |
| 退出を求める | 「これ以上お話を続けることはできません。お引き取りください」 |
| 身の危険がある | (職員は距離をとり、別の職員が警察へ通報する) |
謝罪は待たせたことなど事実に対して行い、要求を受け入れる約束はしない。
患者対応の具体的なコツは「モンスターペイシェントへの対応」も参考になる。
10月1日までの準備スケジュール
施行までは約2週間しかない。小規模クリニックなら、次の順番で進める。
| 時期 | やること |
|---|---|
| 9月中 | 院長名で方針を決める。相談担当者を指名する。過去にあった困った事例を職員から集める |
| 9月中 | 対処の内容(報告ルート、複数対応、退出の求め方、警察への通報基準、診療中止の判断者)を手順書にまとめる |
| 10月1日まで | 全職員(パート含む)に方針と手順書を周知する。就業規則や方針文書に、相談を理由とする不利益取扱いの禁止を明記する |
| 10月1日まで | 院内掲示を出す。録音する場合はプライバシーポリシーに利用目的を追記する |
| 施行後1か月 | 対応記録の様式を運用し、手順書で動けなかった点を見直す |
| 半年ごと | 事例を振り返り、方針と手順書を再周知する |
記録に残す項目
事実確認と応召義務の判断の両方に使えるよう、次の項目を残しておく。
- 日時と場所(受付、電話、診察室など)
- 相手(患者本人か家族か)と、対応した職員
- 具体的な言動(できるだけ発言そのまま)と、要求の内容
- 職員が行った説明と、その後の経過
- 録音・録画、警察への通報、院長判断の有無
診療に必要な事実はカルテに、職員の被害や対応経緯は院内の対応記録に、と置き場所を分けて決めておくと、共有する範囲を管理しやすい。
最小限の体制チェックリスト
- 院長名の方針文書がある
- 相談担当者が決まっていて、全職員が知っている
- 対処の内容を書いた手順書がある
- 特に悪質な場合の対処(警察への通報、警告、診療中止の判断者)が決まっている
- 相談を理由に不利益な取扱いをしない旨を明記している
- 相談内容を共有する範囲が決まっている
- パートを含む全職員に周知した記録がある
- 対応記録の様式がある
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よくある質問
Q. 職員が3人だけのクリニックも義務の対象になりますか?
改正法の条文と指針には、企業規模による適用除外は置かれていない。
職員を雇用しているクリニックは、規模にかかわらず措置を講じる前提で準備したい。
Q. カスハラをした患者の診療は、今後すべて断ってよいのですか?
カスハラ防止指針は、事業主に新たな権限を与えるものではないと整理されている。
診療を断れるかどうかは、応召義務に関する厚生労働省通知の考え方で判断する。
緊急対応が必要な場合は原則として対応が求められ、緊急性がなく信頼関係が失われている場合に、新たな診療を行わないことが正当化されうる。
Q. 相談窓口は外部に委託しないといけませんか?
外部委託は、相談窓口を定めていると認められる例の一つにすぎない。
院内で担当者を定める方法でもよく、上司にあたる事務長や院長を担当者にすることも考えられるとされている。
ただし、院長自身が行為者の対応に当たる場面も多いため、職員が院長以外にも相談できる先があると使いやすい。
まとめ
- 2026年10月1日から、カスタマーハラスメント対策が事業主の義務になる。患者とその家族も「顧客等」に含まれる
- 正当な苦情はカスハラではない。「言動の内容」と「手段や態様」の両面から判断する
- 措置は10項目。方針、相談担当者、対処の内容、悪質事案への対処方針、プライバシー保護、不利益取扱いの禁止を整える
- 診療を断れるかは応召義務の通知で判断する。緊急性の有無と信頼関係の喪失がポイントで、記録が判断材料になる
- 小規模クリニックは、方針文書、手順書、院内掲示、対応記録の様式から始める
参考
- 厚生労働省「令和7年労働施策総合推進法等の一部改正について」 https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/koyoukintou/zaitaku/index_00003.html
- 厚生労働省「事業主が職場における顧客等の言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針」(令和8年厚生労働省告示第51号) https://www.mhlw.go.jp/content/001662625.pdf
- 厚生労働省「労働施策総合推進法 新旧対照条文」 https://www.mhlw.go.jp/content/001502755.pdf
- 厚生労働省「ハラスメント防止措置義務規定等における解釈事項について」(令和8年4月24日) https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/001695619.pdf
- 厚生労働省「カスタマーハラスメント対策企業マニュアル(令和8年度改訂版)」 https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/000915233.pdf
- 厚生労働省医政局長通知(令和元年12月25日 医政発1225第4号、応招義務と診察治療の求めへの対応の在り方) https://www.mhlw.go.jp/content/10800000/000581246.pdf
特徴
対象規模
オプション機能
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この記事は、時点の情報を元に作成しています。
